話題のドラマ「素直になれなくて」はSFなのであ〜る。

みなさん、こんにちは。今回、育児の話は、ほ〜ぼゼロです。ごめんなさい。ごめんください。ごめんください、麺ください。


先週木曜の夜。「素直になれなくて」の第一話を妻といっしょに、リビングのソファでひざをならべて観ました。・・・といっても仲睦まじく「きゃっきゃ、うふふ」という感じではありません。夫婦それぞれがMac BookとiPhoneのモニターを見つめてツイッターをしながら、「ついでに」ネタ元になっているTVドラマをときおり眺めている状態でした・・・。しかも時々、息子が夜泣きをして、どちらかというと僕が対応していました。ホントはずっとTLを見ていたいのに・・・なんて妻には言えません。というわけで、かなり「素直になれてない」状態で「素直になれなくて」を視聴していました。


■「素直になりすぎた結果が、大量のリムーブだよw」といった台詞は一切ない


「素直になれなくて」の内容説明は、公式のフジTVのサイトhttp://wwwz.fujitv.co.jp/sunao/index.htmlを観てもらいたいです。・・・ぬけるような青空が印象的な写真がきれいですね。ちなみにさきほど、はてなで知ったのですが、AV女優の蒼井そらさん名前の由来が「ヌケるような」だとのことで、この秀逸な蘊蓄を、披露したくてウズウズしているのですが、もし会社で披露すると、ぼくが話者である限りはアウトなのでここだけにしておきます。


さて、上のサイトの紹介から伝わってくる印象は「ツイッターを通じて出会った若者たちが織りなす青春群像ドラマ」といったところでしょう。しかし実際は、第一話にて、冒頭の「オフ会」こそツイッターぽい臭いがあったものの、すぐに、「パワハラ」「セクハラ」「万引」「売春」「妊娠」「ドラック」「入墨」「アダルト誌グラビア」「#sokuhame」(苦笑)など、これでもかと衝撃事実的アイコンの大行進でした。ツイッターは、残念なほど影が薄かったです。江口寿史の佳作「日の丸劇場」の主人公ばりに途中から出てこなかったです。ぼくも影の薄さにかけては、S級素人ランクの人間なので、そこに関しては深い共感をえることができました・・・ともかく、「ナカジ!赤ファボ乙!」「おれが受け取るDMはリムッターからだけだ!」みたいな共感セリフが一切なかったことから自明のように、「このドラマはツイッタードラマではない」ということだけを、ぼくらはツイッターのTLのなかで分かりあって、つながりあえた夜だったんじゃないかと思っています。


ツイッターのなかに脚本家がいる、というメタな状態


脚本家の北川悦吏子さんは過去、平均視聴率が30%の「ロングバケーション」をはじめ、あまたのヒットドラマを手がけてきた方です。今回は「ツイッターを題材にする」と決まった2月頃から北川さんもツイッターをはじめたようです。その後から現在までの騒動/バトルの詳細は省きますが、彼女が描くドラマよりも本人の存在がドラマになっている状態です。とくにドラマがスタートした木曜日からは、TLに顕著に見られるようになりました。ぼくとしては、脚本家の北川さんだけが作品の批評の矢面に立つのはどうなんだろう、とも思っていますが・・・それはさておき、脚本家がツイッターにいる状態なので、ぼくたちはツイッターで「@halu1224」と付けさえすれば、簡単に彼女へ意見や感想を飛ばすことができます。実例は示しませんが、けっこうネガティブな意見が送られているみたいです。まぁ、ぜんぶは読まれていないっぽいですけれど。そしてここ数日、彼女が「炎上」について言及するなど、ますますカオスな状況に近づいております。で、この状態がなにかに似ているなぁ、と、ぼんぼんぼんやり考えていたら、思い出したんです、「朝のガスパール」のことを。


■18年前のぼくらは、電話と同じ回線で、パソコン通信なんてしていた


朝のガスパール」は、筒井康隆が1991年〜翌年まで、朝日新聞で執筆していた連載小説です。1992年に日本SF大賞を受賞しています。

朝のガスパール - Wikipedia

この小説は1日1話ずつ掲載という新聞連載の特性を利用し、その日の掲載分を読んだ読者からの投書やASAHIネットのBBSへの投稿を作品世界に反映させ虚構と現実の壁を破るという実験的手法がとられた。


90年代初期のまだインターネットも普及しておらず、電話回線を使ったパソコン通信の時代ではありますが、当時の先端テクノロジーをつかい、同時的に物語へ読者も影響を与えられることを「前提にして」書かれた作品でした。しかし、物語が進むにつれ、筒井康隆が読者(の意見)に対して反撃をするなど、世界の構造が複雑さを増していくのです。

この小説には世界が5重に存在する。オンラインゲーム「まぼろしの遊撃隊」内の世界、そのゲームに熱中する主人公達の世界、その主人公たちの物語を書いている(という設定の)小説家(筒井康隆ではない)や編集者の世界、その小説家の新聞連載に影響を与えている投書やBBSの世界(作者筒井康隆の脳内とも言える)、その投書を書いたりBBSに書き込んだりしている読者(現実)の世界である。 通常ならば互いに交わるはずのない5つの階層に、筒井ならではの文学的実験(メタフィクションの手法)が試みられる。


メタですよ。奥さん。メタです。三度のご飯よりもおかずが好きなぼくはそれ以上にメタには弱いんです。ぼくはSFにはぜんぜん詳しくないのですが、メタ的な物語にとっても惹かれてしまうんです。プロレスの世界に「ブック」というメタ概念があるように(八百長とか、筋書き、なんて言わず、ブックと言うのです)、目の当たりにしている物事の背景に、それまで知らなかった思惑があることに気づかされる瞬間、とてもゾクゾクしてしまうんです。妻が愛してやまない「新世紀エヴァンゲリオン」(97年日本SF大賞受賞作品)も終話近くからメタ視点バリバリになっちゃって「えっ。これ夕方のアニメ番組?」と驚いたものでしたよね!・・・興奮しがちになってしまいましたが、ともかく北川さんがいま居る所というのは、放送されているドラマに対して、階層がひとつ(2つかも?)上(もしくは下)のところにいるんです。で、ツイッターをやっているぼくらもこの階層を、ずっと上り下りしている感じなのです。


■本筋とは離れますが、あの美人すぎる女優さんは、なんて井川遥


さて、18年前の筒井康隆は物語の上り下りをコントロールしながら、読者の意見をねじ伏せて終幕まで導いていきました。いっぽう現在、当時とはくらべものにならない数の批評を受けているであろう北川さんが、事態を収集させるためには、筒井康隆以上にSF的な物語の手法を使うほか『ない』とぼくは考えています。よって、この後はSF展開していく、というのが今回の結論です。朝のガスパールだって第一話は、兵士たちが目的も分からぬまま行進をしているだけでした。きっと「素直になれなくて」も第二話以降から、津田さんをモチーフにした「金髪ブタ野郎」や、勝間和代さんを彷彿とさせる「オンナ勝間和代」、けいおんの登場人物たちの名前を勝手に使う「テクノバンド」、ふつうに「ガチャピン」、ふつうに「田辺誠一」など、フィクションと現実とが溶け合うような人物たちがあらわれて、思いもよらぬ展開をしていくことでしょう。


ちなみに、ぼくのほかにも「朝のガスパール」との類似点を指摘されているかたは多くいらっしゃいました。ツイッターのなかで「朝のガスパール」と検索するとご覧になることができます。そして、その発言をされているかたのほとんどは、朝のガスパール的な展開だったらいいなぁという主旨みたいです(ちがうかたもいますが)。そして、ぼくもそうだったらいいなぁと思っています。






本日のガンダム話。

セーラさんがガンダムで初出撃したとき、カタパルトから飛び出すガンダムのあまりパワーに圧倒され「す、すごいGぃ!」と絶叫し失神してしまうシーンがあります。小学生の頃、この台詞がぼくの周囲で流行りました。その当時はお下品な想像など微塵もしていなかったのですが、今だとけっこうイヤらしい想像をしてしまいますね。・・・妻からは「わたしたちにとって、この地球は広すぎるの。それはもう絶望的なスケールで広いのよ、この世界は。それは分かるよね。オーケー。でも、その広大さを考慮しても、あなたが考えたことを、あなたが考えたままに、善意ではなく、同情でもなく、理解をしてくれる人は、世界で私だけなのかもしれないのよ。わかって?(セーラさん口調)」と、云われました。いや。賛同してくれるかたが、3人はいるはず、とぼくは信じているのですが。